つれづれ思いつくまま 日本

・先々月(わー六月って、もうそんなに前なんだー)、先月と渡ってひと月、(実は)日本に帰っていた。おのぼりさん状態で観光客目線になってる自分に‥驚きを隠せない。関空(リアルな飛行場のこと)からバスで大阪市内に移動したとき‥(たった十ヶ月ぶりなだけなのに)車窓の風景を見て、(そこが関西空港周辺の埋め立て地だったからでもあるけれど)なんて日本て平坦できれいで清潔な町なんだろうーと思う。市内に入ってからも、その印象はさほど変わらない。たとえば、これがいま、私の住む町ならば、なぜだか舗装?の途中で放置のまんまの意味不明の杭とか、無駄な段差とか、道のまんなかに生やしたまんまの木とか‥そういうものがあるはずだから。自転車でスイスイなんてありえない。でも、都会のど真ん中で、どこまでだって、自転車でスイスイ行ける。そう、自転車でスイスイ‥日本の都会のイメージかもしれない。(とこのときはそう思ったけど、のちに、どこにでも(たいして広くもない道にもかかわらず)無理な運転で突き進む自転車の多さに辟易。すっかり忘れてたけど、それも大阪の一面だ~)あぁ、それと空き地に自生してる雑草!南の国では絶対に見ないあの草ー。小さい頃、むしって葉っぱで石を緑に染めたあの草ー。鳥もスズメかカラスかハトしかいないー。セミが鳴いているー。(南の国のわたしの町では案外、セミの声は聞かない)

・驚くこと、それはやっぱり物の多さ、種類の豊富さ、アイデアの細やかさ、洗練。スーパーは、ワンダーランドみたい。生粋の大阪ッコの私が、そんなふうに思うようになるなんて~スーパーごときで目がきらきら輝いてる自分がなんだか自分じゃないみたい。どこに出かけなくともいい、スーパーで充分。ジャスコ、ヨーカドークラスでなくとも、住宅地のスーパーで、そう思った。お菓子の棚ひとつ、洗剤の棚ひとつ、納豆のコーナーひとつ見ても。‥でも、実際‥物が多すぎる。こんなにたくさんあって、使いこなせる人がいるのかな、売れるのかな、実際こんなにバリエーションが必要なのかな、と思う。でも選択肢があるということ、選択する人がいるということが、日本なんだなあ、たぶん。‥でもお金、いくらあっても足りない感じ。なんだか物に購買意欲という挑戦状を叩きつけられてるみたいな気分。楽しいんだけど、疲れた。

・お店で「あ~日本だな~」と感動するのは、いまさらだけど「100均」。都会のビルのテナントに入ってるみたいなのじゃなくて、田舎にでっかくパチンコ屋みたいにドイーンとあるみたいなヤツ。あれはいったい何なんだー。ちまちましたアクセサリーのパーツやビーズみたいなののコーナーもあったり。いまや、商品にも日本語の商品説明だけじゃなく、英語はもちろん、アラビックなんかも併記してあって、まともな?メーカー品よりグローバル。日本の地方都市に住んでたときは、そういう巨大100均ショップが、直近に二、三カ所もある、この無個性ってどうなのよ、と思ったもんなんだけど、そんなこたぁすっかり忘れて、100均に感動しまくる私。(で、なぜか行くたび洗濯ネットを買っている不思議)小さいサイズばかりが増える意味もなく。

・昔、子供がオチビの頃、大阪に帰省した際、もらったおこづかい握りしめて必ず詣でるのは「トイザラス」だったんだけど(今は、どこの地方都市にもあるけど)今や、彼も成長し、こづかい握りしめて右往左往するほど大好きな店は‥「ヨドバシカメラ」。実際、電気やさんを超えてここもワンダーランド。ほしい物を買って、さらについたポイントで、次の買い物を皮算用。(そういう計算は正確で速い)わたしが小学生の頃、そんな頭の使い方してなかったよ。‥とぼやきながらも、私も、「どうせ買うならヨドバシで」なんて思うようになっている、ヨドバシマジック。

・日本へ帰ってきて、空港のムービングウォーク(wikiによると、一般的にはオートウォークというらしい;ムービングウォークは阪急電鉄が付けた名前らしい)を歩きながら、大阪は左側をあけて、東京は右側をあけるねんで~とかいう話を、息子にしていた。

どんなにそのオートウォーク(もしくはエスカレータ)に一度に人がたくさん乗りこんだとしても、

きちんと片側を開放して、一人ずつで乗る。そのキッチリさ加減に、あー、日本に帰ってきた~と思う。ザ・整列、とか。(たまーに慣れてない風なおじちゃんやおばちゃんが並んで立って封鎖してしまうけども)なぜならそれがスマートだからだ、と言わんばかりに思える。もちろん私もそうするんだろうけど。でも少し思う。急いでいる人ならば、動く歩道じゃなく、通路を足早に歩く。つんのめるほど人がひしめいてるのに、お急ぎの方のために通路をふさがずにあけておくのって、理にかなってるのやろか。しかもここは通勤の地下鉄の乗換駅にある”動く歩道”じゃなくて、重い旅行バッグをぶら下げて次のカウンターまでの長い道のりの途中にすぎないしー。

仮に二人連れなら、二人で乗っかったほうが、”動く歩道”の一度にこなせる仕事量としては、そのほうがいいんとちゃうん。それでも、後から急いで来る人がいたら、さっとのけば(どけば)いいことやし、もし気づかはらへん人らやったら急いでる方が「すみません」いうてのいて(どいて)もらったらええことなんちゃうん?まー安全のためには、スペースの余裕はあったほうがいいんやろけどなー。

なんて、日本に帰ってきた途端、いろんな「こうあるべき」にとらわれてくだらんことを考え込んでる私がおり。海外では、自分は部外者だからそんなこと考えることもないけど、日本は自分の国だから、そんな細かいことに気が回るんだろうか。

でも、日本は、洗練された国で、人々は同じような常識を持ち、同じような顔して、同じ言葉を操り、一定の流行、認識の中で暮らし、みな独特の繊細さとプライドを持ち、‥個性を求めながらも、異質なものを察知して、排除したがる感覚、そういうのは元々備わってる、そんな気がする。(まー。私がもっともらしく言わなくても、鎖国の時代からしてなんだけど)

わたしがのどかな国にいるせいで、だいぶ日本を忘れていたのだけど、

日本は、「こうしないと、ああしないと。こうあるべき」が多い国だなあって映る。(単純な例えだけど、駅にて;乗車位置は~、白線は~、数々のアドバイス。たくさんの人とたくさんのソフトを処理するためには、情報の交通整理が必要なんだなあ。その反面、情報が多くて便利だけど、情報が多くあるせいで、考えないでボーッとしていても目的地までは行けたりするのが、なんだか感慨がなくて妙な気がする)

話は飛んだけど、「こうしないと、ああしないと。こうあるべき」‥それはもしかすると、私自身が忌み嫌っている部分で、逃れたくて、逃れられない、自分が長年抱えている弱点なのかもしれない。

‥とまー、こんなふうにやけにいろんなことを思う旅?のはじまりだった。