しあわせな顔

○ハマチの学校にて。卒業直前に上級生のコンサートがあり。

わたしは、楽器の演奏を聴くのがなにより大好きで、クワイアー(合唱)は退屈だと思ってた。真剣な表情で自分の世界に陶酔し、その人たちが歌い終わるまでただ見守ってるのがつまらないと思ってた。

今日も、4曲もクワイアがあるなんて、「多すぎ」と思ってた。

でも、途中の曲から、指揮の先生が、ホールに来ていたクワイアグループのOBOGたちをステージに上げた。現役たちに飛び入りで加わって、新旧混じって歌い出したクワイアの顔が、マジメな顔から、パッと表情が華やいだ。一瞬でしあわせな顔になった。歌うことがほんとに楽しくてしょうがないんだーという感じ。 このグループで今一緒に歌える一体感、うれしい気持ちが包んでるのがわかる。あーいいなー。グルーヴ感。

仲間がいるっていいなー。シェアできるっていいなー。仲間がいなかったら、シェアできひんやん。それってつまらんことやなー。

学生っていいなー。ああ、そうか、自分たちで空気を作って、シェアできること、それが学生の醍醐味だったのかもしれないなー。(学生でなくとも、似たようなことはできるけど、「濃い」仲間がいるなー)

しあわせを体感してる人の顔を見てるのって‥元気がわいてくるものですね。

だからしあわせを感じている人、そういう雰囲気を発散する人には、思わずこちらもにこにこ顔になって、そばに寄って行きたくなるのかもしれない。話しかけたくなるものなのかもしれない。

なんて思った土曜の夜。

○夜、NHKをつけてたら「英語でしゃべらナイト」に上原ひろみが出ていた。私は彼女のことをテレビで一度見たことがあるだけで、そのときにはあんまり興味がそそられなかった。ただただ笑顔の女の子で、チックコリアに見いだされた見かけよりもものすごいパワーの持ち主ってことはわかったけど(多分に、彼女のスペシャルな部分を際だたせるような見せ方をしていた番組だったと思う)それだけでは別に惹かれることはなかった。

「のだめ」っぽいピアノを弾く女の子にすぎなかったのだけど。

今夜のテレビで彼女の人となりに興味が沸いた。

たとえば、飛行機の乗り継ぎ乗り継ぎで突然のフライトの欠航が起こる。でも、ライブの予定があるため、どうしても明日には目的地に着かねばならない。たいてい普通の人なら、怒りで疲れてしまう。疲れても当然で、こちらは客だから、いばってもいいとさえ思う、そういうときに他人に優しくなんかなれなくても構わないと思う。(わたしのばあい)そういうとき、彼女はまず、事務的なカウンターの人に対して優しく「今日は忙しい日で本当にたいへんね」というのだという。そしてそのあと自分の望む条件を交渉していくらしい。(まず自分の大変さ加減を分かってもらおうとする正攻法でなく、まず相手の立場を理解して、それから自分の話をすること、それってきわめてシンプルだけど重要なことだなあ)

ライブにて、彼女の演奏は即興だから、ときには、「これはまずい」という方向に進んで行ってしまうこともあるという。(彼女自身のときもあるし、ときにはバンドメンバーのときもある)が、そういうときはもちろんあるのだが、そういう方向にそのとき不意に踏み込んだからこそ、未知の何かが生まれるその瞬間がなんともいえずすばらしく(とこういう表現ではなかったのだけど、意味はだいたいそういうことだと思う)だからやめられないのだという。知っている道を選んで、昨日見た絶景は見られないかもしれなくても、知らない道を選ぶ、のだという。

なるほど。人生は即興。

ここにもグルーヴにからだを委ねているしあわせな顔。

わたしはどれだけしあわせな顔をしてこれたかなあ。

これからどれだけしあわせな顔になれるかなあ。ただ、口角をあげて笑うとかいうことじゃなくて。

いまはたとえ、自信がなくとも。

そんなことを思った土曜の深夜。

(追記;このときの「英語でしゃべらナイト」には、イーサンホークのインタビューもあって(インタビュアーは押切もえ)恋愛経験についての質問をされたのだけど、彼は経験が多いことは決していいことではないと。そして「人生にそんなに自信を持たなくてもいいんだよ」と。なるほど、そりゃそうだ。  この番組をつい見てしまうのは、人の人生から直接紡がれた言葉を聞けるからなのかもしれないな。)

○卒業直前の生徒を控えた学校には、いつにもまして、しあわせな顔、しあわせな思い、しあわせな家族たちがひしめいていて。でも、絵に描いたようなしあわせ、うらやましい光景の中に、実は実子ではなく養子縁組した人もいる。(なぜわかるかと言えば、親と子の人種が違ったりするから)養子縁組するにいたった裏側には、(子供側に)「しあわせ」でない現実もあったのだろう。今から思えば。実の親子でなくとも、愛しみ育てはぐくみ。それはまた、なんというか、想像を超えたしあわせの形だ。(少なくとも私にとっては)わたしが今まで思いこんできた、家族愛とか親子愛とか夫婦愛とか、当たり前の血のつながりを、超越した次元のしあわせなのだろうか。想像することしかできないが。いまさらながら、大家族に惹かれている。家族って血のつながりだけじゃないのかもしれない、とか思ったり。他人さまのことだから興味本位なのかもしれないが、自分に備わらないものに興味がある。

「しあわせになりたいなあ」って時折、無意識につぶやいてしまうときがある。それって、つまり笑顔でいたいなあってことなんだ。誰かを助け、助けられたい。いい空気をシェアしたい。

支離滅裂で大あくびの真夜中。おやすみなさい。

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追記

「求めよ、さらば与えられん。」

「いつも喜んでいなさい。」(いつも笑っていなさい、というフレーズに形を変えて私の中に染みついてるのだけど)

クリスチャンではないのだけど、子供のころから通った学校のせいか、こういう言葉がふとした隙に降臨してくる。そんな言葉が浮かんだ日曜の朝。